国際関係!徹底マスター用語解説:冷戦と東欧

トルーマン・ドクトリン
1947年3月12日、アメリカ大統領トルーマンが議会に向けて発した宣言。第二次世界大戦後、ソ連の影響により東欧諸国が共産主義化していった。その食指がギリシアへも向けられていると感じ、脅威を感じたアメリカが、ソ連を中心とした共産圏諸国を明確に敵視し、その封じ込めをはかる世界政策をとることを宣言したものである。東西冷戦時代の幕開けのきっかけとなり、その主張はのちのマーシャルプラン、北大西洋条約機構(NATO)などに受け継がれた。

冷戦
アメリカはCOMECONを通じて西ヨーロッパの復興を進め、北大西洋条約機構(NATO)の結成を通じて西側諸国の囲い込みを行った。他方、ソ連はコミンフォルムによって勢力圏にある国々の結束を固めるとともに、ワルシャワ条約機構によって東側陣営のあいだに軍事同盟を成立させた。第二次世界大戦末期にアメリカが原子爆弾を完成させたのに続き、1949年にはソ連も核実験を成功させた。冷戦は、両陣営が自分たちの社会制度の優越性を主張しあうイデオロギー対立としての性格を強めていった。アメリカは自国の経済的な豊かさをアピールするとともに、新興国が豊かさを実現するためのロードマップを提供しようとした。アメリカが資本主義のもとで豊かな社会を実現していく歴史的過程を明らかにすれば、そこから得られた教訓を新興国にも応用できると考えた(C.f.近代化論)。一方で、ソ連は1917年ロシア革命を契機に誕生してから急速な産業化を成し遂げており、社会主義のもと宇宙開発などを宣伝しアピールした。

ソ連解体
1980年代後半に登場したミハエル・ゴルバチョフは、マルクス・レーニン主義を掲げた政府の民主化を目標としてグラスノスチおよびペレストロイカの政策を導入。1989年12月に行われたマルタ会談で冷戦の終結が宣言され、翌年3月にソ連の初代大統領に就任した。しかしゴルバチョフの改革に反発する保守派のクーデターや、ソ連を構成していた連邦共和国の独立が進み1991年12月に大統領を辞任。ソ連は事実上解体となった。

東欧民主化
1988年にソ連のゴルバチョフ政権が新思考外交に転換したことから、東欧諸国においても民主化革命が進み、共産党政権が次々と消滅した。ルーマニアの独裁者、チャウシェスクの処刑、東ドイツでは社会主義を維持し続けていたホネカー書記長が退陣。その後ベルリンの壁が開放され、1990年にはドイツ統一が実現した。それまでソ連圏の一員という枠内で進めていた改革を、各国独自に展開することが可能になった。

キーワード解説
1945年の秋から冬にかけて米英とソ連の関係はさらに悪化していった。たとえば11月にハンガリーとブルガリアで共産主義政権確立した。ソ連が不正選挙を辞さない政治介入で、共産主義政権を確立させたとされている。既にソ連は、トルコや中東に対しても影響力拡大を目指していた。ここで1944年パーセンテージ協定とは、チャーチル(当時イギリス首相)とスターリン(当時ソ連首相)の独自の交渉である。イギリスとソ連で第二次世界大戦後のヨーロッパにおける勢力範囲(影響力が及ぶ国ぐにの範囲)を予め定めたものだ。さてギリシャとは、イギリスの影響力が強く及ぶ国にするという取り決めがあらかじめあった(ハンガリーとブルガリアはソ連の影響力が強く及ぶ国にするという取り決めだったが)。実際にはソ連は、トルーマン・ドクトリンが発せられた段階で、まだギリシャの共産主義勢力を支援してはいなかった(件のパーセンテージ協定も守っていた)。しかしトルーマン・ドクトリンとは、アメリカが、対ソ影響力拡大阻止の戦略に対内的な支持(国民や議会の支持)を取り付けるため、意図してショックを与える狙いがあったとされる。

※国際関係!徹底マスター用語解説で、用語は、国際関係のファカルティの編入学試験で出題された過去問題から選んでいます。

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