藤原氏の進出と政界の動揺

奈良県奈良市に興福寺(2018年度奈良女子大学文学部にて出題)というお寺がある。もともとは669年、藤原鎌足の病気が平癒することを願い、鎌足の奥さんが京都府京都市に建てた山階寺が起源である。その後、672年の壬申の乱をきっかけに藤原京(2018年度関西大学文学部にて出題)に移される。さらに710年の平城京遷都に際して平城京(現在の場所)に移され、そして興福寺と名付けられた。名付けたのは藤原不比等(2018年度奈良女子大学文学部にて出題)である。以来、藤原氏の氏寺として手厚い保護を受け、12世紀に平氏の兵火で焼失した際も仏師らの手によって復興活動が行われるなどした。

ところで藤原氏っていつから偉いの?・・・いつからかはわからないが藤原不比等の代で既にとても偉かったのは間違いない。藤原不比等は697年に娘の宮子を文武天皇に嫁がせた。そして二人の間にできた皇太子(のちの聖武天皇(2017年度奈良女子大学文学部にて出題))にも娘の光明子を嫁がせた。そのようにして藤原氏は天皇家と密接な関係を築いた。701年に完成し、翌年に文武天皇が公布した「大宝律令」、以来、日本の律令制度は徐々に確立していく(「律令制下の地方支配」2018年度新潟大学人文学部にて出題)のだが、藤原不比等はその初期の中心人物であった。

しかし藤原不比等を中心に律令制度の確立が進むにつれ、皇族や有力豪族間で保たれていた勢力均衡は次第にアンバランスになっていったと言われる。それが顕在化した事件といえば、729年の長屋王の変である。長屋王とは、藤原不比等の死後に政権を握った皇族である。長屋王は、天武天皇の孫であり、文武天皇の妹を妻とし、さらに藤原不比等が長屋王にも娘を嫁がせていたことが手伝って、実権を握った。長屋王が実権を握ったことで、地位が危うくなった藤原氏。藤原不比等の4人の子らは策謀によって長屋王を自殺に追い込む。これが長屋王の変である。しかし後世に「長屋王の呪い」と呼ばれる疫病(天然痘)の流行で、策謀を巡らせ政治の実権を握った4人の子らは相次いで病死してしまうのである。これにより藤原氏の政界における後退は決定的で、その後に政治を主導したのは皇族出身の橘諸兄である。しかし橘諸兄の次に政治の実権を握ったのは藤原仲麻呂(2018年度学習院大学文学部ににて出題)だった。藤原仲麻呂を信任したのは光明皇太后(聖武天皇に嫁いだ藤原不比等の娘、孝謙天皇の母)(2018年度奈良女子大学文学部にて出題)だった。藤原仲麻呂は橘諸兄の子・奈良麻呂のクーデタを未然に防ぎ、反藤原勢力を一掃させた。しかし760年に光明皇太后が死去すると、道鏡という僧侶が上皇になっていた孝謙上皇の信任を得て台頭した。藤原仲麻呂は道鏡を除こうとするも失敗、764年に近江で敗死した。そして同年、孝謙上皇が重祚して称徳天皇となり、道鏡は政権を掌握した。しかし770年に称徳天皇が死去、皇位を継ごうとした道鏡は失敗し追放される。そして770年には天智天皇の孫の光仁天皇が即位した。壬申の乱以来、天武天皇の子孫が皇位を継ぐ原則を廃した藤原氏の擁立での即位だった。覚えているだろうか、天武天皇とは壬申の乱の勝者であり、天智天皇(2018年度東洋大学文学部にて出題)の弟である。彼の有力な子孫はもはや、数々の政治的事件で死去または失脚していたのであった。

710年に平城京遷都した元明天皇から、794年に平安京遷都した桓武天皇(即位781年、光仁天皇の子)(2018年度関西大学文学部にて出題)まで、奈良時代に天皇家は7回の代替わりをした。その一方で、政治的事件で死去または失脚した実力者は、皇族と藤原氏をあわせて12人である。熾烈な権力闘争の時代であったと言えるだろう。

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