西周(1829~1897)の政治思想

西周(にし あまね)とは

西周は、福沢諭吉や、加藤弘之、津田真道、森有礼らとともに日本の近代化のために努力した近代日本を代表する思想家の一人である。江戸時代末期の津和野藩において朱子学や徂徠学を学んだ後、初めての公儀公認留学生としてオランダに渡って西洋の思想、学問を学んだ西周は、帰国後は日本最初の学術団体である明六社の結成に関わって主要メンバーとして活動し、明治初期の学問、教育界をリードしたほか、官僚として実務の世界でも活躍した。
西周は、「軍人勅諭」起草者として日本の軍国主義化の進行に大きな影響を与えた人物と理解されていることも多いが、明治前期の国内秩序に軍隊を、軍人社会の暴力から遮断された平常社会を設立することを念頭に、組み込むことに悩んだ人物でもある。西周は慣習法下の秩序を秩序の手本と考える場面は多く、その道程に深浅はともかくとして、自然法、法実証主義、功利主義(特にジョン・スチュアート・ミル)、実証哲学(特にオーギュスト・コント)を学び、学んだうえで慣習法下の秩序を理想的なものと考えた。自然法や法実証主義などは、結局学んだうえで西周なりに疑問を感じ、自身の政治思想に取り入れなかった。西周の政治思想の柱は、慣習法、三権分立、功利主義である。

道徳は敷居が高いと考えた

西は、軍人社会からの暴力の影響を遮断した健全な平常社会を設立することこそを専らの課題としていた。西が活動していた明治前期という時代は、「秩序」や「規律」を軍人社会の特徴として挙げることができるような時代ではなかった。むしろ、軍人社会ほど「秩序」や「規律」から程遠い社会はなく、まずは平常社会において実現できている程度の「規律」を、軍人社会においても実現するということこそが、当時の軍人社会が抱えていた課題であった。

杓子定規な法律とは違い人間味あふれる寛大なもののように見える道徳を用いた統治や教育は、しかし実際には法律以上の要求を人々に課し、しかもそれを自発的にするよう強制する行為になりがちであるというのが西の認識だった。西は、軍人の横暴な振る舞いや犯罪を問題視していた。しかしそれらを道徳の問題とすることには戸惑いがあった。西は、法律と道徳とを比べ、法律は最低限のことを規律するが、道徳は、要求度の高い実行困難な要求を含んでおり、法で制限するよりも道徳を諭すことのほうが自由な領域を減少させることにつながると考えていた。道徳を強調する言説は、結果として、逆説的にも、道徳的な人間ではなく悪人というレッテルを貼られてしまう人間ばかりを多く作り出すことになってしまうというのである。

文民統制と三権分立

西は、「兵は兇器、戦は危事にして逆道以てこれを行う者」として軍隊を捉えており、いかにして常道としての全体の権力機構の枠組みの中で統制するかということを課題にしていた。西周は、軍隊は行政権の管轄であり、そして君主は「国法上」において行政権の長とされることから、兵権の「国法上」における保持者、責任者は君主であると論理的に説いた。「武士に奪われていた兵馬の権が、明治維新によってようやく天皇の手に戻された」という歴史によって正当性を説くのではなく、西は、天皇が総帥兼を保持することの正当性を国法に求めた。

西は、天皇をあくまで行政権の長として捉えようとしていた。そして西は、近代の政治原理として、三権分立による勢力均衡の重要性を論じることが多く、天皇も、立法権、司法権による監視、抑制を受けざるを得ない立場にあると考えていた。西は、軍隊を、行政権の長である天皇に統制され、法に基づいてしか行動しない集団にしようとしていた。

慣習法への理解

西は、慣習法下にいる人々は、それが法であるから守るというのではなく、自らが自然に守ることによって形成し続けられている秩序の体系に無意識のうちに加わっている、と理解していた。西は、ある秩序への服従を国家の強制力によって獲得するというのでも、立法意図への賛同によって獲得するというのでもない、各人が秩序の存在それ自体すら意識することなく習慣的にその秩序に従っているような状態を理想としていた。明治日本の法システムを考える西は、旧慣によって形成される秩序と、権力者の命令としての成文法によって形成される秩序とをめぐる大きなジレンマに陥っていた。西の評価する慣習法システムとは前者であるが、日本の江戸時代から続く旧慣や伝統そのものの重視とは同義ではなかったためである。そして明治日本は成文法によって形成される秩序を選ぶのであった。

軍隊秩序においても、西は、処罰されるから命令に従うというのではなく、自ら進んでという以上に、命令に従っているという特別な意識もないままに、各人が命令によって形成されている秩序の中に自然な形で含まれてしまっている状態こそが、秩序がより強く維持されうると言う理由で理想的だとした。

功利主義

道徳の強制を避けようとする西は、「民」に対して、道徳的であれ、とか、政治に参加せよ、あるいは、公益を目指せといった要求を課すことはなかった。「民」に課したのは最低限の要求であり、それは互いの私益を侵害しないということであった。言い換えれば、法の範囲内では全く自由に私益追求ができるということであり、それでもなお問題が生じないような制度を作ることが「君子」に課せられた課題であった。この二段階で構成されるものが西の功利主義だった。

もちろん道徳的な制約がなければ、脱法行為が氾濫するかもしれないし、法治主義の成立自体が危うくなるかもしれないが、西は無意識的に法や秩序に従う習慣こそ秩序維持に重要なものだとしていた。道徳的制約ではなく、競争のルールを守ったほうが全体の利益になるという認識を持てばよいという議論も、そのような認識を必ずしも持てるわけではないとし、西は、宗教論でもって認知能力を醸成しようとした。

参考文献

『西周の政治思想: 規律・功利・信』菅原 光(著)

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