ハンナ・アレントの政治思想

アレントの公共性の領域(公的空間)とは、アレント自身の政治イメージに基づき、それは古代ギリシア(アテナイ)のポリスへのイメージである。アレントは代議制に対する不信を表明し、評議会制を政治的な参加と自己統治の促進手段として評価した。現代人が、アレントの公共性の領域の考え方を援用し、現代政治が抱える諸問題を補完的に解決する役割を期待することは、確かに矛盾が少ないものの、もしかすると意訳が行き過ぎているかもしれない。

カントの判断力は一般的に、規定的判断力(特殊な事例を既にある普遍的規則に帰属させる能力)と反省的判断力(特殊な事例から普遍的な原理を導き出すア・プリオリな能力)に分けられる。さらに、反省的判断力は美感的判断力と目的論的判断力に分類される。

カントの美感的判断力とは、例えば、「花が美しい」という判断は、そのような規定に由来していると言うよりは、むしろ、あらゆる人々が美しいと見なす中、普遍的な原理として見出された形容に他ならない。これはカントの美感的判断力の一例である。

アレントは、カントの美感的判断力の概念が美や芸術に関する問題だけでなく、個々の行為や政治的判断(後述)にも拡大適用できると考えた。アレントは、判断力を「特定のものを普遍的規則に服従させることなく判断する能力」と定義している。アレントは判断力を「人間の最も政治的な精神的能力」と見なし、また「意志の恣意性の問題を解決する役割を負っている」と主張した。

アレントの「意志の恣意性」とは、意志が、反意志との内的葛藤によって行動を停滞させることなく、むしろ行為に移行することで葛藤から救済されることである。アレントは、悪事を犯す人々が、その行為を諫める良心と同居していると説く。ただし、アレントは悪事を単に思考の欠如として捉えることはなかった。彼女は、悪事とは、集団的な現実や社会的な関係性の中での圧力によるものだと考え、それを解決するためにはより深い理解と対話が必要だと主張した。

アレントの政治思想は、自律して普遍に至るのは、行為者ではなく、注視者であり、行為者は注視者に他律され普遍に至るプロセスを核心とする。行為者は特殊であり、行為者の視点は必然的に部分的で偏ったものになる。行為者の周辺に複数の注視者らがいて、ある注視者が他の注視者らを見渡し、自律し、注視者らは普遍になる。行為者は注視者らに他律され、普遍に至る。これが「公的」な世界で、「政治的」であるとアレントは言う。

存在者は存在者に知覚されて現れる。アレントの言う「世界」とは、現れている存在者の総体である。この世界で、その存在が、観察者を前提としない物や者はこの世界にない。この世界で何ものかが存在すると言いうるためには、常に知覚するものとされるものという二つの項が必要なのである。従って何ものも単数形では存在しないのであり、複数性が世界の法則である。世界で、知覚を持つ存在者とは、主体であり、同時に客体でもある。アレントはこのことを生物の「世界性」と呼んでいる。そのうえで政治も、道徳をも他律であるということだ。

アレントの「政治的」とは「公的」と同義であり、公的領域と私的領域とを厳密に区別した。公的領域は、市民が平等に参加し、相互に関わる政治空間である。私的領域とは諸々の経済活動を押し込めた領域である。公的領域に、私的利益の折衝が登場することは否定され、批判される。公的領域は私的領域の凹凸から隔離され、かつ公的領域は私的領域を支配下に置かない。彼女は政治をゼロサムゲーム的な利益分配ではなく、共通の関心事に関連するものと見なした。また、アレントはマルクス主義の生産手段の国有化を批判し、貧困からの解放は生産力の持続的な成長によってのみ実現できると主張した。アレントの政治思想のもう一つの核心とは、この、技術革新によるとめどない生産力拡大であり、これがアレントの経済イメージなのだろう。アレントは、今日「市場」と呼ばれる概念を省いているため、社会主義福祉国家のメタファーが感じられるかもしれないが、論述の背景にあるものは20世紀中葉のアメリカの豊かさだ。アレントの政治思想は、平和の保全であり、平和主義者の手で守られていなければならない。

参考文献
『ハンナ・アレントの政治理論 (アレント論集 I) 』川崎 修 (著)
『ハンナ・アレントと現代思想 (アレント論集 II) 』川崎 修 (著)

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