AI(人工知能)

AI(人工知能)による自動運転車は、自動車事故を減らすだろうと期待されている。AIに交通法規を守らせることはプログラムとして可能だ(でなければ困る)、しかしAIが自我を持っていて、自律して交通法規を守るわけではないと思われる。万が一事故を起こしてしまった場合の責任(刑事責任)としてAIを処罰するとは滑稽な話に聞こえる。

哲学者ジョン・サールは、「言語Aと言語Bの対応表があれば、どちらか一方を習熟することでもう一方も習熟したように思いこませることができる。」という比喩で、人間の真似をするAIと人間を再現したAIとは異なると述べた。もっと厳格に彼の立場をとれば、「だから作れない。」と言うことになる、なぜなら彼の言う、人間を再現する、とは人の「心」を再現すると言う意味だ。つまり、少なくともチューリングテストという審査方法への批判には違いないのだが、チューリングテストを突破することを、してみせた、AIと、現実の人間とを同一視できない。もしもチューリングテストを突破できるAIが開発のゴールであるならば、サールの言う通りだ。もしかするとサールは、AIが、むしろ開発者の手で便利な道具に過ぎないものとして生み出されるという、産業技術に対する現実的な予見をしたのだろうか。つまり一定の要件を満たしたら完成品として扱われる現実的な工程を批判したのだろうかと言うことだ。その一方で、AIとは、たとえば人間型ロボットのような汎用型AIと、たとえば将棋ソフトのような特化型AIに分けられるが、サールの言う「強いAI」、強いAIとは心理学研究における説明そのもの(たとえばBという精神疾患を再現しきったコンピュータ)、汎用型AIと強いAIとが”nearly equal”であることは専門家の見解として今日一定の認識がある。

心とは自我であり、自律でもあるが、自我とは完全なる自由の産物を生む心であり、自律とは理性的な自由の産物を生む心である。理性とは、ここではプラトンの意味する理性を拝借しておこう。自我とは、ルネサンスの芸術を例として挙げることができる。AIに描かせた絵(computer graphics)は、サールの指摘によく当てはまると筆者は思う。AIはルネサンスの画家の真似をしていると言うほうが適切だろう。自律とは、孔子の『論語(為政篇)』に書かれている「吾十有五にして学に志す」を例として挙げることができる。

吾十有五にして学に志す
孔子 『論語』 為政篇より(口語訳)
子曰く、、
「私は十五歳のとき学問に志を立てた。
三十歳になって、その基礎ができて自立できるようになった。
四十歳になると、心に迷うことがなくなった。
五十歳になって、天が自分に与えた使命が自覚できた。
六十歳になると、人の言うことがなんでもすなおに理解できるようになった。
七十歳になると、自分のしたいと思うことをそのままやっても、
人の道を踏みはずすことがなくなった」と。

自律とは、理性の能動によって自我から規律された心でもある。

情報法学者のヨハイ・ベンクラーは、個人の自律の概念を形式的に捉える立場と実質的に捉える立場とを区別し、自律の概念を実質的に理解する必要性を説いている。前者は、個人が自律的に選択を行う能力を有しているものと想定した上で、個人を自由で理性的な存在として尊重する。他方、後者は、人々が諸々の環境により制約される現実の世界において実際に行使しうる自由の程度を問題にする。(中略)ベンクラーのように個人の自律を実質的に理解する立場では、個人の自律に与える制約が国家によるものであるかプラットフォーム事業者のような私人のものであるかを問わず、物理的、社会的、制度的条件からなる構造が、どの程度他者による操作を受けずに自らの生を計画し追求する個人の自由を許容するかが問われることになる。【抜粋 『AIで変わる法と社会 近未来を深く考えるために』 p26,27 編)宇佐美誠 当該部分の著者)成原慧】

中略した部分に書いてあるが、ベンクラーは、たとえばパターナリズムに基づく国家の介入は、個人の自律を形式的に捉える(つまり個人を自由で理性的な存在として尊重する)ことでもって、歯止めをかけることができると言う。しかし、それゆえ、法や政策が創り出す「文脈の中の個人」を見落とすと言う。文脈依存的な個人こそ、現実主義的な個人像であり、そこを出発点とすることが個人の自律を実質的に捉えることだと言う。ここからここまでが自由であって、その範囲内で「貴方は自由です、なぜなら理性的に物事を判断できます。」と、与えられることなくして、個人の自律は有り得ない、そのうえで自由を追求することが個人の自律であると言う。誤解のないよう、筆者は、だから人間とAIとは他者に規定されるという意味で接近していると言いたいのではなく、悪さ(厳密には悪と規定された行為)をする自我を持たなければ、自律した自分自身が善良だという感覚が欠落してくると言うことだ。個人の自律とは、確かに他者に規定された文脈の影響を受けるものであるが、理性の能動によって自我から規律された心である。つまり善良になろうとする心である。その一方で、他者に規定された文脈でもって個人の自律を模倣するものがAIである。つまり善良なAIとは、個人の善良になろうとする心を模倣して、善良な部分だけをやってみせるものである。

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