経済学は理系の学問と比べると理系的な意味でまだまだ原始的です。たとえば経済学でまともな実験が始まったのは戦後です。また経済学は経済現象を俯瞰して(空を飛ぶ鳥さんの目線で)みて論じる学問なので、もともと、ある特定の経済現象を詳細に解決するためのツールではなく、しばしば糞の役にも立たないと断罪されます。
しかし、まともな経済学がなかった時代の経済の悲惨さを物語る多くの文献が、当時の惨状を雄弁に語りながらも、どこかその後の地球経済の発展と安定に経済学の絶え間ない貢献があったことを感じさせます。たとえばケインズ先生は、世界恐慌を目の当たりにし、当時の新古典派経済学が失業を自発的(自分の意思で無職)、あるいは摩擦的(いまちょっと無職)のどちらかと断定する考え方に疑義を覚え、非自発的失業(働きたいのにいつまでも無職)が起こる仕組みを、有効需要の原理というフレームワークを打ち立て、そこに内包しました。
しかし現代、有効需要の原理を誤って伝えてしまっているマクロ経済学の講義は少なくありません。たとえば有効需要の原理は静学分析であり、総需要が総供給を上回る状態や、あるいはその逆の状態を想定しながら動学的な考察(ではどのようにして両者は一致するでしょうかなどと考えるなど)をするフレームワークではありませんから、オーソドックスなマクロ経済学講義で「国民所得の決定」というセクションを取り扱う際には大変な注意が必要です。あくまでケインズ先生が何を説いたかと言えば、
総需要Y=C+I
総供給Y=C+S
実際に貨幣支出を伴う需要(=有効需要)とは総需要と総供給の交点ですから、現に交点が常々実現しているということです。そのうえで失業ゼロ(完全雇用達成)における供給水準(完全雇用水準)に有効需要が量的に満たないときは非自発的失業が起きているよということです。投資I=I+ΔIの乗数効果も、そのように総需要における投資が現に増えたのであれば、当然にYも増えたはずで、ならば C= c0 +c1 Y で消費Cも増えたはずで…つまり現に起きたΔIという投資ショックに起因したところでYがどれくらい現に増えたはずなのかという議題です。この「現に起きたことの絵解き」として細心の注意を払いながら有効需要の原理を読むと、彼の説く「需要が供給を決める」とはつまり「(穏便な新古典派は「あえて」を枕詞にしたかもしれない)需要が現に増えた事実を出発点にして国民所得Yが増大した事実を説明する」ということです、(失礼極まりない言い方をすれば、あくまで)そのように考えましたよということです。有効需要の原理で、総需要曲線と総供給曲線が異なっているのは投資Iと貯蓄Sが一致していない可能性を正しく考えるという金融市場への懐疑そのものです。その背景にあるもの、この世界的に有名なフレームワークのモチベーションとして、世界恐慌があるのです。
参考:『入門 経済学の歴史 (ちくま新書) 』根井 雅弘