アヘン戦争を契機とする閉関政策と鎖国政策の終焉とその後の経過の日中比較

清国の閉関政策とは、政府が対外貿易を制御するもので、史実として冊封体制と海禁政策を同時に行うものであったが、中国の主観的国際秩序としての冊封体制に海禁政策とは取り付けられたものなのか、包摂されたものなのかどうかについて明確にしている文献は非常に少ない。明・清の時代には冊封体制で関係性のあった周辺国(朝貢国と互市国)は60余ほどであった。アヘン戦争にて清国に大勝するイギリスも朝貢国に数えられていたこと(そのようにしてアヘンの貿易を執り行っていたこと)や、敗戦後威信も落ち込むなか清国内保守派官僚があくまで周辺国秩序を念頭に冊封体制維持を主張するなど史実がある。

同時期・同時代区分に鎖国政策を執り行っていた隣国・日本が比較的穏やかに開国後の明治維新を迎えた理由は、■敗戦国でない、■そもそも欧米から第一の標的にされていない、という相違が清国との間にあるものの、■欧米が維新派(改革派というべきか)を支持した事実こそ重大とされる。その経緯として「太平天国の乱」から「第二次アヘン戦争(アロー戦争)」へと至るに「アジア系民族は抵抗した後でなければ屈服しない」と認識したうえで「日本に関しては慎重に事を進めたい」と欧米側で判断したことが挙げられる。明らかに大きな影響を及ぼしているアヘン戦争(と太平天国の乱)に関する情報が、清国以上に厳格な鎖国下にあった日本で、錯綜していなかったことも寄与していると思われる。

【参考文献】

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