日露戦争前夜を考える

いま国家間の対立を戦争によって解決しようとする考え方は、多くの人びとが否定するところだ。その一方で、近代戦争の時代を経て現代があると言っても過言ではない。具体的に日清・日露戦争とは日本が経験した近代戦争でも初期のものであり、当時として、どのような見方と考え方があったのかを資料を通して振り返りたい。

■資料A(主戦論).東京帝国大学の七博士意見書(戸水博士ら)
ロシアが満州を占領すれば、次に朝鮮を狙うことは明らかである。朝鮮がロシアの勢力下に入れば、次に狙うところは聞かなくても明白である。だから現在、満州問題を解決しなければ、朝鮮が失われてしまう。朝鮮がなければ日本は防御できない。(中略)私たちは理由もなく開戦を主張しているのではない。(中略)この好機を失えば、日本はその存立が危うくなることを国民は自覚するべきである。(「東京朝日新聞」1903年6月24日)

■資料B(非戦論).内村鑑三の主張
日清戦争で2億の富と1万の生命を費やして、日本が得たものは何か。(中略)目的だった朝鮮の独立はかえって弱められ、中国の分割は激しくなり、国民の負担は非常に増し、東洋全体を非常に危うくしたではないか。この害毒を目前にしてなおも開戦を主張するのは、正気のさたではない。(「万朝報」1903年6月30日)

■資料C(平和論).谷口房三の主張
元来戦争そのものの目的が、多くの場合に於いて貿易の進捗にある以上は、能うべくんば(納得いくのであれば)この際何とか平和に局を結んで(終わらせて)もらいたいのである。若し戦争をしなければ国家の危殆に来す(日本が非常に危ない状態になる)という場合なれば、それは別として、今日の場合は未だそれ程までではないと信ずるから余りに他国のことにやきもちを焼いて感情に逸らない(感情的にならない)ことを希望するのです。(1903年11月頃)

■資料D.『滑稽欧亜外交地図』作 者:中村進平(閲)小原喜三郎(案)西田助太郎(著・発行)

上の絵は『滑稽欧亜外交地図』と呼ばれる。1904年に日本人の手で描かれたものである。南下政策のロシアを黒蛸とし、ロシアが様々な国ぐにへ干渉していく様子を風刺したものである。東側に伸びた一本の足が、ちょうど中国の満州地域にもたれかかり、そのまま遼東半島のあたりで垂れさがっているのがわかる。

遼東半島とは日清戦争後の三国干渉(1985年4月17日)で、日本が清国に返還した土地である。三国干渉を受け入れた当時の伊藤博文(内閣総理大臣)は、それに加えて消極的な朝鮮政策についても政界から強く批判されていた。朝鮮では、三国干渉の翌1896年2月11日に親露派政権が成立した(c.f.その経緯として「閔妃暗殺事件」がある。)。これは朝鮮内の親日勢力を抑えて成立した。そうした話の流れで、さらには日露の緊張緩和を目的として朝鮮の財政や国防上の問題を日露共同であたる協定(c.f.山県・ロバノフ協定)が取り決められるなど、日清戦争の目的から考えれば日本側の失点ととれる出来事が多々あった。

対照的にロシアは、満州地域も躍進していた。日清戦争(1894-1895)の賠償金(清国から日本への賠償金)は支払期限が1902年に定められていた。清国は支払いを関税収入などを担保とする外債(外国からのお金を借りる)に頼るしかなかった。清国への借款引受けをめぐる列強間の競争は加速した。特に三国干渉の余韻が残るなかロシアは、外交で、清国に東清鉄道(シベリアから満州地域を走る)の敷地権などの利権も獲得していた。この東清鉄道は、後に義和団事件(1899年11月2日~1901年9月7日)で義和団によって破壊を受けたが、それが事件後のロシア満州占領の口実になったという見方もある。資料A~Dは、こうした経緯に対する見方と考え方なのである。

義和団事件の前あたりから、その頃になると大韓帝国は、日露によって事実上分割された立場を是認しつつ、さらにそれを是とする日本との間で利害調整を図るようになっていた。ロシアも日韓の利害調整は欲するところだった。また板垣退助と大隈重信が入閣した第三次伊藤内閣の発足(1899年1月12日)の直後に、ロシアから日露協商の提議もあった。日本と共に極東で歩んでいく道も模索していたロシアにとって、その後の日英同盟(1902年1月30日)は衝撃的だった。義和団事件(1899年11月2日~1901年9月7日)で見せた日本の実力は、対露軍事力の補強で、日本との軍事同盟関係をイギリスが考えるに大きなきっかけだった。日本は日英同盟(1902年1月30日)を結んだ。これは日英とも日露戦争を企図した同盟ではないとされるも、ロシアの反応を読み切れず、日露戦争は次第に不可避の様相を呈していく。

■意見

明治期の日英関係は条約改正(1894年7月16日)以降は良好だった。この関係性は日清戦争さえも後押ししていたという見方もある。明治期の日本の粘り強い二国間外交とは、確実に条約改正を念頭に置いたものだ。しかし何をもって日本が「一等国」の仲間入りを果たせるか、およそそのような論点で考えたとき(あるいは考えていなかったとしても)、とかく国内でその結論が出ないまま近代戦争へと歩んでいたことがわかる。

■参考と出典
資料A~B.『「見方・考え方」を育てる中学歴史授業モデル』編著)土屋武志 明治図書
資料C.『日清・日露戦争と帝国日本』著)飯塚一幸 吉川弘文館

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