近所の中華料理屋でウーロン茶を注文すると、店主がおもむろに近所の量販店で売られていたであろうペットボトルから【ウーロン茶一杯】を注いで持ってきてくれる、一杯800円。一杯180mlだとして家でペットボトルを開けたら8円くらいなのだろうか。ここで差分の792円とは中華料理屋が、その場で提供した【ウーロン茶一杯】を生産したさいの付加価値なのである。そしてここで言う「付加価値」とはマクロ経済学で言う「付加価値」と寸分狂わず同じ意味である。ここで家でペットボトルを開けて正味8円で飲むとは、中華料理屋の生産活動(その付加価値792円)をバイパスするということで、そのとき国内総生産(GDP)には、もしも中華料理屋で【ウーロン茶一杯】を注文していれば加算されていた792円が、加算されずに終わっているのである。
もう一つくらいこの手の談義をしよう。山から羆が下りてきて人家を荒らしていて損害が出ていたとする。そして市役所の要請を受けた猟師1名がライフル銃でなんとか射殺して羆の暴走を止めたとする。猟師には手当10万円が支払われたとすると、この有害鳥獣駆除の付加価値(マクロ経済学で言う意味での付加価値)とは10万円以下である。※たとえ羆が数千万円以上の損害を市街に与えていたとしてもである。ちなみに銃弾は有害鳥獣駆除サービスの中間生産物(半製品)にあたる。
このような考え方をする目的とは、三面等価(生産=分配(所得)=支出を一致させること)に他ならない。もしも誰の給与にもなっていないなら「付加価値なき生産」ということにしないと、「生産」が「分配(所得)」を上回って三面等価原則が崩れてしまう。このように三面等価原則に従わないという意味で「つじつまの合わない考え方はしない」ということなのである。これはマクロ経済学が、その考え方の根本に、ケネーの経済表(経済循環)を源流としてるからである。重商主義批判以来の思想的系譜なのである。