アメリカで始まった大恐慌
1920年代から1930年代にかけて、アメリカのGDPは世界でトップの位置を維持していました。1920年代初頭には第一次世界大戦後の経済復興期にあたり、アメリカ経済は急速に成長しました。この時期にアメリカは世界最大の経済大国としての地位を確立しました。
ここで大恐慌が起きます。1929年の株価暴落による大恐慌の影響で、アメリカ経済は大きく揺れ動きました。
アメリカで始まった大恐慌は、20世紀初頭の最も深刻な経済危機の一つであり、やがて世界経済に大きな影響を与えました。以下に、大恐慌の主な要因とその影響をまとめます。
- 1. 株価暴落: 大恐慌は、1929年10月に起こった株価暴落で始まりました。この時、ニューヨーク証券取引所で株価が急落し、多くの投資家が大きな損失を被りました。株価暴落は恐慌とパニックを引き起こし、投資家や銀行が多額の資産を失うことにつながりました。
- 2. 銀行の破綻: 株価暴落後、多くの銀行が経営危機に直面しました。銀行が倒産すると、預金者が銀行から預金を引き出そうとし、銀行の信用が失われました。この銀行の破綻と預金の引き出しは、金融システム全体に混乱をもたらしました。
- 3. 失業率の急増: 大恐慌の間、失業率は急激に上昇しました。多くの企業が倒産し、多くの労働者が雇用を失いました。失業率の上昇は、家計の収入が急減し、消費が低下するという悪循環を引き起こしました。
- 4. 農業不況: 農業部門も大恐慌の影響を受けました。農産物の価格が暴落し、農家は収入の大幅な減少に直面しました。これにより、農村部の経済は疲弊し、多くの農家が破産しました。
- 5. 政府の対応の遅れ: 大恐慌初期には、政府の対応が遅れました。フーバー大統領時代(1929年から1933年まで)には、保護主義的な政策が採用されましたしかし景気を立て直すことには失敗しました。これにより、景気回復が遅れ、大恐慌は長期化しました。
注意点は、アメリカが依然として世界最大の経済大国の地位を維持していたことです。その後はルーズベルト大統領時代(1933年から1945年まで)のニューディール政策によって経済が持ち直し始め、アメリカのGDPは再び成長を始めました。
1930年スムート・ホーリー関税法
1930年にアメリカで制定されたスムート・ホーリー関税法は、アメリカの保護主義政策の一環として導入されました。この法律は、外国からの輸入品に対する関税を急激に引き上げるものでした。この関税の引き上げは、アメリカ国内の産業を保護し、失業率の上昇や景気後退に対処することを目的としていました。
スムート・ホーリー関税法の導入は、イギリスとの関係に大きな影響を与えました。イギリスは当時、アメリカの主要な貿易相手の1つであり、両国間の貿易は多岐にわたっていました。しかし、スムート・ホーリー関税法によって、イギリスからの輸入品に対する関税が急激に上昇し、イギリスの輸出業者や製造業者に大きな打撃を与えました。
イギリスの経済はすでに第一次世界大戦の影響で弱体化しており、スムート・ホーリー関税法の導入によりさらなる経済的困難に直面しました。イギリス政府はアメリカ政府に対して抗議し、関税の引き下げを求めましたが、効果は限定的でした。
このように、スムート・ホーリー関税法は、イギリスとアメリカの間の貿易関係に大きな影響を与え、両国間の経済的な相互依存度を減少させる要因となりました。
金本位制の崩壊
アメリカで始まった大恐慌が世界に拡散した主なメカニズムは複雑なものですが、一つ挙げるとすれば、金本位制の存在は重大です。大恐慌中、アメリカは金本位制を維持しようとしました。しかし金本位制では、金の供給量が一定であるため、金本位制下ではデフレーションが加速し、それが経済を悪化させる要因となりました。1930年代初頭には一部の国が金本位制から脱退しました。これにより、通貨の価値が不安定になり、国際金融市場に混乱が生じました。金本位制の崩壊は加速し、世界の国々は金本位制を放棄する道を選ぶこととなりました。
自国通貨の制御
1930年代に金本位制から脱退した各国が自国通貨を制御したことは、国際貿易における取引リスクを増加させ、結果として国際貿易の低迷を招き、ブロック経済という経済体制に拍車をかけました。
金本位制で、たとえばA国通貨が1単位につき1/35オンスの金と交換され、B国通貨が1単位につき1/140オンスの金と交換されていれば、A国通貨1単位とB国通貨4単位が釣り合うことになります。しかし国によって生産力の実態は異なりますから、(金であれば1:4の交換比率だが)ある品物をとって、たとえばA国にてA国通貨1単位で20個買えるが、B国にてB国通貨1単位で8個買えるということもあり得るわけです。このとき、この品物によればA国通貨1単位とB国通貨2.5単位が釣り合うことになります。金本位制を脱退した上で、この品物の生産力を反映させるのであれば、A国通貨:B国通貨の交換比率の相場(基本的に自由な交換比率で取引してよいため「目安」ということになるもの)は1:2.5にする(A国通貨の価値を切り下げる)ことになります。
金本位制であれば、通貨保有者は金との交換を念頭に置くため、交換比率とは(固定相場制でなくとも)固定相場制に近い挙動になります。ところが金本位制を脱退したことで、交換比率は不安定なものになりました。国際貿易における取引リスクの増加とはそういったことです。
大恐慌後のブロック経済
大恐慌後のブロック経済とは、世界恐慌の影響で、各国が経済的な自立(自給自足)を求めて国内市場(財市場)を閉鎖経済的に保護しようとした経済政策の一環として生まれた経済体制を指します。
大恐慌後のブロック経済が進行する中で、植民地は、植民地をもつ国(本国)の様々な政策下におかれました。一定の傾向として、本国は植民地との貿易関係を強化しつつ、同時に保護貿易政策を採用していたため、関税優遇(本国と植民地との間で貿易の関税率が低い)などを執り行っていました。しかし、結局本国の産業に有利だったり、植民地は本国の生活に必要な財を供給する立場だったりして、植民地はそれまで以上に、搾取される(被搾取的立場に置かれる)ようになりました。
植民地を持っていた国々
「欧州列強」という用語は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、世界的な帝国主義の時代に、ヨーロッパ諸国が世界中に植民地や影響圏を築いた国々を指します。一般的に、以下の国々を欧州列強として考えることが一般的です。
- イギリス
- フランス
- ドイツ(※第一次世界大戦後に多くを失う)
- オランダ(※17世紀から18世紀にかけての海洋帝国の名残り)
- ベルギー
このうちドイツの植民地は第一次世界大戦後に失われました。大恐慌の時代に植民地を持っていた主な国々とは、イギリス、フランス、ベルギー、オランダの順です。
イタリアは19世紀に統一されたばかりであり、帝国主義の時代には他の大国に比べて植民地を持っていませんでした。イタリアは、20世紀初頭にリビアを獲得するなど、一部の植民地を持ちましたが、それらは比較的小規模であり、オランダ(現在のインドネシアを支配していた)、ドイツに次ぐ地位でした。
移民(外国人労働者)排斥の傾向
大恐慌後のブロック経済下では、経済的な不安定や失業の増加が移民に対する不寛容な雰囲気を醸成し、排斥の動きが強まりました。それは植民地から本国に渡ってくる移民にも同様でしたし、時には植民地から帰還する本国の国民も排斥の対象になりました。
参考文献
『一般経済史 (MINERVAスタートアップ経済学)』 河崎信樹 (編集), 奥 和義 (編集)