第三話 ラケットの値段

 翌日の学校。教室では、しおりが先月から始めた習い事が、まことしやかに知れ渡っていた。しおりちゃん、卓球始めたの?、とか、そんな風に話しかけられた。しおりは、気さくなクラスメイトに感情を跳ね返すように明るく、うん、とか、そうだよ、とか返事をした。卓球は小学生スポーツでも人気筋だ。おしゃべりなクラスメイトは、村木はいつかテレビに出ろと言う。

 そんな言葉のやり取りに混じって、

「しおりの家、お金あったんだな。いいな、卓球が出来て」

という鈍い声があった。

 声の主は、反町つくしという市営団地に住むクラスメイトだった。つくしは、ウチは以前に習い事をしたいと母親に言ったら、親父に殴られたと語った。

 しおりは、達哉との対比で、酷いお父さんだねとつくしに言った。

 つくしは、これに気を良くして、一番許せないエピソードを語り出した。親父が冷奴に醤油をかけずに食べている事を、どうして?と聞いたら遠くの壁まで殴り飛ばされた。後で母親から聞いたら、親父なりに貧乏を指摘されたと勘違いして殴った、親父は本当に豆腐が好きで最終的に醤油をかけなくなっただけだった。

 しおりは、反町家が貧しいと、ここで知らされつつ、世の中にはいろいろなお父さんがいるのだとしみじみ感じた。

「奥井さんの卓球教室なら、ラケットとシューズがあれば出来るし月謝もタダだよ」

「月謝がタダとはどういう事だ?」

「知らない」

「誘ってくれているのか?」

「そうだよ!」

「でも月謝がタダだから通わせろなんて言ったら、どうせまた殴られる」

「一緒にお願いしよう!」

 つくしは、少し悩んだ様子で考え込んでから、卓球自体は楽しいのかと聞いた。しおりが、楽しいよと言うと、つくしは、じゃあ今日は一緒に団地で遊ぼう、親父は今日は休日で家にいるが、朝の機嫌は悪くなかったと言う。

 この作戦は、しおりの言った通りに成功した。つくしの父は大悟という。ビール腹で、運輸倉庫の仕事をしている中年だ。遊びに来たしおりには懇切丁寧で、月謝がタダだと聞くと嬉しそうに、じゃあ体験をさせようかなと言って笑った。本当は野太い声の人だとわかる、薄ら明るい声で。大悟は、つくしの友達の前では取り繕ったように人の良さそうな人物なのだ。つくしも、やはりこのパターンかと言いたげな顔をしていた。

 しおりは、つくしとカードゲームをしながら、卓球の何が面白いかを教えた。昨日出会った静香の話もした。

「身体をうんと鍛えて、卓球をする子がいてとても強いんだよ」

 しおりは立ち上がると、スマッシュを打つ静香の真似をした。しおりがドタバタしても、反町家の親が何も言わなかったから、つくしも立ち上がって真似をした。

 しおりがピンポン玉を持ってくればよかったと言うと、つくしは、

「すっかりしおりと仲良くなったな。卓球教室のこと親が許してくれるといいなあ」

と言って口を噤んだ。

 そして体験は次の土曜日だった。大悟が、しおりとつくしを自家用車で送った。帰りは、現地で合流する村木家がつくしを団地までバスで送る。親同士で話し合って、そうなった。

 運転席の大悟は信号待ちで、後部座席のしおりに、

「村木さんは、つくしと仲良くしてくれてありがとう」

と薄ら明るい声で言う。

「卓球教室にも友達がいるけれど、学校の友達ははじめてです!」

 大悟は、うんと頷くと、ラケットは二万円くらいするのかなと、今度は少し息張った声で言った。突然の質問にしおりはギクッとして声を詰まらせたが、つくしが二千円くらいだと言う。

 大悟は、

「今日行って決めようなあ!」

とまた少し大きな声で言う。

 しおりは驚いたが、つくしが即座に、

「はあい!」

と大きな声で返事をした。なんだつくしに言ったのかと、しおりは思った。

 しおりは、緊張した。大悟とは、やはり怒らせると怖い人である事が想像に容易い。

 奥井卓球教室に着いて中に入ると、小学生が喜びそうな飾りつけの内装を見た大悟は、ああ、なんだこういう所かと小声で呟いて、後は特に悩む様子もなく、ニコニコしていた。村木家の達哉と清恵にも、丁寧に挨拶をして、世間話を少しした。

 奥井にも、

「結局、税金で取られちゃうんでしょ?」

と言って、月謝がタダである理由を冗談めかして尋ねた。

「それもありますけど、ボランティアでやっていたほうが何かと気楽で」

「そうなのですか、わかりました。それでは、駐禁になるので」

 大悟はそう言って、そそくさと帰って行った。達哉と清恵は、面白いお父さんだねと、しおりの卓球仲間になるであろう、つくしに言う。

 つくしは、優しそうな達哉と清恵に安心して、心置きなく体験をした。奥井が、ラケットをペンホルダーとシェイクハンドでどちらにするか聞くと、つくしはしおりと同じが良いと言った。しおりは、今日はつくしと一緒に素振りをすると言って、隣で打ち方のフォームを教えた。その後は、体験の壁当ても行った。

 つくしは、奥井との試合で笑みがこぼれて、

「楽しい」

と呟いた。

 奥井が、

「つくしちゃん!スマッシュしてみよう!」

と言って、わざと球を浮かせると、静香の真似を思い出したつくしが、バシッとスマッシュを決めた。これには教室の子ども達も騒めいたのだ。

 しおりが興奮気味に、

「つくしちゃん!二人で沢山練習しよう!毎日練習しよう!」

と言う。

 つくしは、

「親父に通って良いか聞かないと」

と言った。

 そんな不安とは対照的に卓球教室の子ども達は、しおりちゃんもすぐ強くなったし、つくしちゃんも動きが良いし、私も頑張ろう!とか、興奮気味だった。

 奥井は、反町家の機微を知らず、嬉しそうに、

「優しそうなお父様だから大丈夫!」

と言って、つくしにギョッとされた。

 達哉と清恵はバスの中で、しおりと仲良くしてくれてありがとうと言う。つくしは引きつった表情で、まだ卓球教室に通えるかわかりませんと言う。そんなつくしの予感は当たっていた。大悟は、つくしが帰って来る時刻に団地のバス停で仁王立ちをして待っていた。

 翌日の日曜日に村木家の電話が鳴った。大悟からだった。大悟は、つくしが卓球を頑張り抜けるかわからないと、電話口の達哉に言う。達哉は、しおりも特別運動が出来る子ではないけれど、卓球は楽しくて続けていますと言った。

 さらに翌日の月曜日に、しおりはつくしから「ナマポ」という単語を知らされる。つくしは、大悟が村木家を差別用語で呼んで軽蔑していた事を、しおりに知らせた。しおりの家は働かずに子育てが出来るくらい役所からお金を恵んで貰っている不思議な家なのだと。あんなによくしてくれたのに、申し訳ないが、卓球教室の件は無かったことに、とつくしは言いかけた。言いかけて、また口を噤んだ。

 しおりは屈託なく、

「不思議な家なの?」

と聞いた。

 つくしは、一昨日の晩、途中で投げ出したら途中で投げ出す子になるから、かえってやらせられないと大悟に言われたことも打ち明けた。つくしは、卓球やりたいなあと呟いた。殴られてはいないよと言う。不思議な家、云々には返事をしなかった。

 しおりは、

「今日も一緒に遊ぼう!つくしちゃんの家に行きたい!」

と言った。しおりは、直接大悟を説得しようと思った。差別用語で呼んでいるとはショックだったが、つくしが理不尽だと言う気持ちが勝った。しおりが熱意を持ってつくしに卓球を勧めている事は、確実につくしには伝わった。つくしは、今日は親父は家にいないと言って、しおりの申し出は断った。

 この夜、つくしは自ら大悟を説得した。

「しおりは友達だ。友達んちを馬鹿にするのは辞めて欲しい」

「なぜ一昨日の晩にそう言わなかった。つくしもナマポが馬鹿だと思ったんだろうが」

「親父みたく働いているわけじゃないのを、親父にたてついて庇うわけにはいかない」

「じゃあ、いつか働いている俺のほうを馬鹿だと思うだろう」

「誓って、それはない!でもしおりは友達だ!ナマポでも友達だ!」

 大悟は、少しの間を置いて、

「一週間、皿洗いしろ」

と言った。つくしは、え?という顔をして固まった。つくしは、大悟の傍若無人な子育てとは裏腹に家の手伝いを強要される事はほとんどなかった。

「ラケットが二千円だなんて、ナマポに乗せられて父親に言った以上、手伝いをしろ」

 意味がよく分からずにいるつくしは、

「通っていいの?」

と尋ねた。

「今日から家でラケット代を稼ぐように。シューズの値段は言い出さなかったから俺がナマポより良い物を買って与える」

 翌日の教室でつくしは、事の顛末をしおりに伝えた。

 しおりは、

「本当にお家の手伝いをすれば通えるようになったの?」

と言った。

 つくしは、しおりを見て、

「友達が大事なのではないかな。友達を大切にしろとか、親父は言いたい」

と言う。

 しおりは、嬉しそうに、

「よかった!」

と言う。

 その後、つくしは無事、次の卓球教室から入会した。しおりはつくしと、すっかり仲良くなって、時は八月を迎えた。

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