それから時が幾らか経ち、ある土曜日の夕方。しおりは、今日も卓球教室で元気に卓球をした。夏休みを二週間前に控えた七月上旬だ。むせかえる暑さも日中ほどではない。親子三人の通いなれた帰り道で、清恵は、
「それにしても、しおりは、卓球が上手になったわね」
と言う。
「奥井さんに勝ちたい!」
「まだ勝った事のない子はいないの?」
「奥井さん!」
「奥井先生に勝ちたいのね」
「卓球は楽しいし、勝てると嬉しい!」
「そう。実はね、卓球には、私達、特別な思い出があるのよ」
清恵は、未だに十二年前のあの日を思い出すと言って、達哉に、
「しおりを見ていると、達哉を選んで良かったと思えるの」
と言った。
達哉は、その話か、と言って苦い顔をする。
「藤間さんは医師でもないのに清恵をうんと気遣っていたな」
「あら、達哉。まだ藤間さんの事が許せないの?」
「清恵は、俺と藤間さんの両方を好きになって、俺は見ていられなかった」
「私はね、二人とも友達だったから凄く怖かったわ。本当は私の陰口を言っているかもしれない。そんな事ばかり沢山考えてしまって」
「藤間さんは清恵と付き合うまではしないって、俺にハッキリ言ったからな。だから俺は卓球で真剣勝負をしたんだ。でも藤間さんは、俺が本当に清恵が好きか知りたかっただけだ。清恵を好きだったのは俺だ」
達哉がそう言うと、清恵は小さく頷いた。しおりは、「藤間さん」という人物の名を、何度か夕飯の食卓で聞いた事もあったが、一体誰なのか、どんな人物なのか、わからない。
達哉は、
「結果的に俺は藤間さんという友人を失った。俺の卓球は、失った友情の続きだった。しおりが気に入ってくれるか自信が無かったが、決断して体験させたら、こんなに気に入ってくれて。今は卓球はしおりの習い事だ」
と言った。
しおりは、
「お父さん!私は卓球を続けるよ!凄く楽しいから!」
と、両親に割って入った。少し、不気味な話題に感じられたからだ。
達哉は、清恵に、いつまでも辛い思いをしていたら自分のためにならない、俺も乗り越えないと、と言った。
しおりは、卓球を習っているが、何か特別な思い入れがあったのだな、と思った。
翌日の日曜日。達哉としおりは市民プールのある建物に併設された卓球場に足を運んだ。達哉は、夏休みの墓参り以外に、しおりに体験させられるものが滅多にないと、悔しそうにしおりに打ち明けた。達哉は、そんな風に悩んだ事は何度もあった。
しおりは、
「卓球があるよ!」
と言った。
しおりは、確かに海、長野や関西に遊びに行く学校の友達をうんと羨ましがっていた、しかし村木家とは、何かが足りない家だと思う事こそなかった。
卓球場に着くと、意外と空いていて親子二人で嗜むにはほどよい居心地だった。卓球台が整然と並ぶ卓球場で、二人は所定の場所を探し、手荷物を床に置くと、早速ラリーを始めた。
しおりは昨日の話をふと思い出した。達哉にとって、卓球は失った友情の続きだった、今はしおりの習い事だ。藤間さんとは、一体誰なのだろうな。
そして、カコン、カコンとラリーをする親子。
「ふへへ!マジか!本当に上達したな~!」
達哉は、嬉しそうにしおりの上達を褒めると、わざと横回転をかけてしおりを苦戦させた。
「横回転はレシーブが難しい!」
「いないの?横回転を使う子」
「奥井さん以外に横回転を使う子はいないよ!」
「ありゃ~!そうか」
「ありゃ~って何?」
「もっと強い子がいるクラブとか興味ないの?」
「え?」
「奥井さんとしおりの間に、うんと沢山の子がいるよ?」
「そうなの?」
「ふへへ!奥井さんを目指していても奥井さんにはなれないよ!俺より強いもん!」
「なにぃ~!」
しおりは、そう言ってスマッシュをするが、子どもの力なのか達哉にあっさり返されてしまい、返し球を拾うことが出来なかった。
「今の打ち返しとか、出来る子いるよ?」
「くそぉ~!」
「くそはやめて!」
ピンポン玉が転々と転がる床を、卓球用シューズで追いかけるしおり。先月買ってもらった、まだ新品に近い。球を拾い上げて、また卓球台に駆け寄るしおりを、達哉は見守るように見ていた。
しおりがサーブをしようと腰をかがめた時だった、一部始終を見ていた休憩中の家族が、子ども同士一緒に打ちたいと達哉に申し出た。
達哉は、構いませんよと言って、相手の子どもの顔を少し覗き込んだ。相手の子どもはハキハキとした声で、
「東洋卓球クラブの神道静香です。小学三年生です」
と挨拶した。
達哉は、
「ウチも三年生です。まだ始めたばかりなので相手になるか分かりませんが、よければお願いします」
と返事をする。
しおりは、
「奥井さんの卓球教室に通っている村木しおりです」
と言った。静香の家族は聞きなれない「奥井」という名前に首をかしげながら、しおりの打ち方が基本に忠実でしっかりしたコーチが付いていると思ったと言い、出来れば試合形式でお願いできないかと言う。
しおりは、
「強い子と勝負したいです!」
と意気込んだ。静香の親は、あらあら、じゃあお願いしますと言う口調だ。静香も、ニヤリとした顔、鋭い目でやりたいと言う。
卓球台を挟んで対峙するしおりと静香。試合前のラリーが始まった。静香のシェイクハンドのラケットは使い込んである。達哉は、何かを思い出したような目で卓球台を行き来するピンポン玉を眺めていた。
ラリーが終わると「十一点制・デュース有の一ゲームマッチ」と確認して、試合が始まった。公式戦では無いが、しおりは緊張した。なにせ奥井卓球教室の外でする初めての試合だ。汗が手の平につたう。
静香はサーブサイドをしおりに譲った。しおりは言われるがままに先にサーブを打つ。あまり知られていないが、サーブはネットより十六センチメートル高い位置にピンポン玉をトスするルールがある。その他にも、真上に、回転をかけず、相手から見えるように、などルールがある。
しおりは静香を見た。もしかしたら静香はサーブが下手なのではと思うと、少し緊張が解れた。対外試合と呼べるかわからないが、ある程度まで上達してから初めて出会った人と試合をするのは、愉しいかもしれないと思えた。
しおりは、右利きの静香が中央で動じないのを見て、静香の左側にサーブを打った。しおりは順回転しか打てないが、恐らく静香はバックハンドで対応する。バックハンドで対角線に鋭い打球を打つ難しさは知っている。静香の打ち返しは、恐らくしおりの右側か正面に来るだろう。それをフォアハンドで返せる可能性が高い。
しかし静香は、左に一瞬で移動すると、フォアハンドでスマッシュを打った。打球はしおりの左側を鋭く突いて、静香が一点先制した。しおりのサーブは決して高く浮いたわけではなく、強く順回転をかけ返さなければネットを越えた後で台上に返球されない。大人でも、嗜んでいる程度では打てない。
静香は、ポカンとするしおりの顔を鋭い眼で見て、小さく頷くと、少し緩んだ表情でしおりのセカンドサーブを待った。
しおりは、悔しいと思い、全く同じサーブを打つ。静香は今度は下回転の打球で打ち返した。そのまま短い距離の攻防になり、また静香が制した。静香は首を左右に振ると、ピンポン玉を受け取り、サーブを打とうとする。
しおりは、最初の二点で静香の実力を分からされるが、良い意味で心が追いつかず懸命に食らいつこうとした。
これが七対ゼロになると、静香はしおりにあえてループドライブを打たせてみたり、それをループドライブで打ち返してみたり、様々な事を試した。静香は終始、真剣な表情だった。その過程でしおりは四点を取って、十対四でマッチポイントを迎えた。静香のサーブ。
静香は、ラケットの上下を逆さに持ち、肘を高く挙げて、クルッと回し込んだ、ピンポン玉の側面を擦るように。
しおりは、初めて見る動きにギクッとした。直感で横回転だと分かった。打つとしおりの右側、あさっての方向に飛んでいく順横回転。しおりは、頭が真っ白になりながら、打ち返した。バウンドした直後を、勘でラケットを右に傾けて。
しおりのレシーブは運よくネットインして台上に転がった。コロコロと転がるピンポン玉。静香は何か言いたげだった。しおりは、ごめんなさい、と言った。あまり知られていないがネットインは得点した側が一言謝る事が慣例だ。
静香はセカンドサーブで全く同じサーブを打った。しおりは同じレシーブで、今度はネットを越えて返した。これを静香があっさりスマッシュして、十一対五で試合終了した。
静香の親は、申し出た手前、体裁の良い結果でホッとしたことがよく分かる言葉を、達哉に送っていた。達哉は、何度もお辞儀をして、しおりの対戦相手になってくれた事に御礼を言った。
しおりは、静香に全く及ばない事にようやく心が追いついて、悔しいというよりはむしろ虚無に近い感覚に囚われた。
「ナックルレシーブをどこで覚えた?」
静香は、そんなしおりの心境を知らず、語りかけた。面食らうしおりに静香は、
「村木さんは、順横回転をなんで綺麗にナックルで返せるのか?」
と言った。首を傾げるしおりに、何かを察したのか、静香は、まずは順回転を極めるといいよ、目先の勝ち負けにこだわらないほうが、大きな勝ちを得られると言って、去って行った。
達哉は、ボウッとするしおりに、励ますように、頑張りましたね!と言って笑った。
それからしばらく親子でラリーをした。達哉は嬉しそうだった。
「藤間も父親になったと聞いた」
「なに?」
「俺の昔の友達も、しおりみたいな娘がいるらしいんだ」
「藤間さんって誰なの?」
「しおりも卓球を辞めるなよ」
「お母さんの昔の恋人?」
「心の、な」
「心の恋人ってなんだ!」
達哉は、満足気だった。二人は夕方までそうしていた。帰宅すると、清恵が夕飯の支度をして待っていた。達哉は、卓球場で起きた事を話すと、清恵は嬉しそうに聞いた。しおりは、清恵が昔どんな女性だったか達哉から少し聞いて、自分がちょっぴり大人になった気がしていた。