第一話 奥井卓球教室

 ある日の夕暮れ。家族三人で歩く家路で、父・村木達哉は、娘・しおりの習い事を何にしようかと話しだした。しおりは小学三年生だ。昨年の夏の暑さを思い出す六月に、半袖のシャツをピンと伸ばして掴む手は、母・村木清恵の左手。しおりは、お父さん、お母さんと一緒に遊べるものを習いたいと言った。

 村木家は生活保護受給者世帯だ。他界したしおりの祖父(達哉の父)の家に、祖母(達哉の母)をいれて四人で暮らしている。達哉と清恵はともに精神障がい者で、一般就労から遠ざかっていた。二人とも就労継続支援事業所B型で週12時間ほど軽作業をして、生活費の足しにしている。達哉と清恵は同じ病院のリハビリ施設で出会った。精神科のリハビリは、スポーツをしたり、レクリエーションをしたり、喩えて言うなら小学校のような所だ。出会って一年で交際し、二年交際して結婚した。しおりは、清恵が二十八歳、達哉が三十歳のときに出産した子だ。

 清恵は、結婚後も崩さない丁寧な口調で、卓球がいいかなと言う。リハビリ施設で、達哉が得意だった卓球がいいかなと言って、笑った。

 達哉は、

「ふへへ!マジか!卓球!しおりも卓球やるか!」

と明るい声で言う。

 しおりは、嬉しそうな達哉の顔を見上げて、卓球は楽しいの?、と言い、今度は清恵の顔を見た。自分を真ん中にして嬉しそうにする両親の姿を、何度も見て育ったしおりは、卓球という言葉の響きが少し気に入った。

 達哉は、

「テーブルの上でピンポン玉を突く遊び!愉しいよ!」

と言った。

 しおりは、両親が生活保護受給者である事の意味は知らない。月、火、金曜日に働いて、水、木曜日はリハビリ施設で体調管理をしている事も、特異な事だと全く思っていない。幸せな家庭に生まれたと信じる証拠に、しおりは清恵に似た笑顔を絶やさない。しおりは、達哉の言葉を信じて、やってみたいと大きな声で言う。

 清恵は、奥井さんの卓球教室がいいわよと言う。

 達哉は、

「奥井さんがやっている卓球教室が毎週土曜日だから!次の土曜日に連れてってあげる!」

と言った。奥井とは、病院の看護師で、リハビリ施設で働いている。達哉と清恵が交際する前から二人のリハビリを手助けしていた。リハビリのプログラムで卓球を教えるのが高じて、趣味で小学生向けの卓球教室を開校して何年か経つ。リハビリの看護師は病棟の看護師と違って自由な時間が多く、出世欲さえなければ悪くない仕事だった。

 しおりは、この世でたった一人の父親の素っ頓狂な喋り方をよく聞いて育った。

「お父さんと一緒に遊べるなら卓球がいい!」

 この日は卓球という言葉の響きを喜んだ。清恵も、二人の嬉しそうな顔を見る度に、しおりの髪の毛を撫でた。

 次の土曜日。達哉は、しおりと清恵を連れて奥井卓球教室を訪れた。達哉と清恵は車の運転が出来ないから、家族はバスと徒歩で現地に向かった。一年ぶりの懐かしい暑さが蘇る六月の昼下がり。道中は達哉がよく喋った。

 達哉が、着いたぞと言ってしおりを見た。少し汗ばんだしおりは、希望に満ちていて、習い事をするぞという決意を胸にしまい込んでいた。

 玄関の扉を開けると、奥井は練習生の子どもたちと戯れていた。昔、保育園だった建物を少し改装して作った内装。小学生が喜びそうな折り紙の飾りつけが所狭しと施されている。平日はクリーニングのタグ付けの仕事で使われる空間を、コネとツテで安く間借りして、土曜日の卓球教室で講師を務める。

 達哉は、

「奥井さん、体験に来ました」

と言って奥井を呼んだ。

 奥井は、達哉に、やあよく来たねと言って、村木家を歓迎すると、しおりに、

「はじめまして!お父さん、お母さんの通う病院で看護師をしている奥井です!今日は来てくれてありがとう!」

と言った。

 しおりは、初めて見る奥井とすぐに打ち解けて、

「卓球で遊びたいです」

と笑顔で返事をした。教室の中をキョロキョロすると、卓球台が三つある。しおりは、さも中に上がりたそうな顔でニコニコして、

「奥井さん、入っても良いですか?」

と言う。

 奥井は、もちろんですよと言うと、学校の体育館履きに履き替えるよう指示して、しおりが履き替える様子をジッと見ていた。

 清恵は、

「奥井さん。今日はよろしくお願いします」

と礼をした。

 達哉は、

「ふへへへ!気に入るといいなぁ~!卓球なら親子で遊べるからなぁ~」

と相変わらず嬉しそうに話す。

 奥井は、

「村木さんも、清恵さんもリハビリを頑張っていますからね。今日は天使のような子が来ましたね」

と言って、しおりを受け入れた。

 それからシェイクハンドのラケットの持ち方や、右利きの打ち方のフォームを奥井は丁寧にしおりに教えた。ラリーをする子ども達とは別に、初心者の子どもは壁に向かって素振りをした。しおりはそこに混ざった。

 しおりは、時折、達哉と清恵のほうをチラチラと見ながら素振りをした。卓球台でカラン、コロンとピンポン玉を打って遊ぶ子ども達の声を背中で聞きながら、生まれて初めて習い事をしている自分自身を親に見せつけた。

 しばらくすると奥井は、初心者の子にはこれだよと言って、しおりを壁当て練習のスペースに案内した。そこには卓袱台が斜めに、壁に立てかけてあった。

 奥井が

「行くよ」

と言ってピンポン玉を軽く投げると、カチンと卓袱台に当たって跳ね返った球がしおりのラケット付近に飛んできた。

 ビュン

としおりは勢いよく空振りをする。しおりは背中を曲げて笑った。笑ってはいるが、この野郎と思い、悔しかった。

「ムカつく!」

と奇声を上げるしおりに、奥井は、

「よぉし!当たるまで特訓だ!」

と言って小走りにピンポン玉を追いかけて、また元の位置に戻って来た。

「次は当てる」

と小さな声で呟くしおりは、この習い事の中の遊びに関心を寄せ、どうすれば当たるか考えた。

 しかしどうしても当たらない。

 奥井が、

「ラケットを振る速さを、ピンポン玉の速さに合わせてみよう。今は速すぎる」

と言って、奥井はジェスチャーでゆっくり振り回すよう伝えた。

 すると、カコンと鳴って、初めて球がラケットに当たった。満面の笑みを浮かべるしおりに、奥井もにんまりと笑った。

「当たるようになったら、なるべく卓袱台に打ち返そう!また跳ね返った空中の球を一歩二歩と追いかけて打ち返そう!」

 しおりは音が愉しかったから、壁当てに30分くらいずっと打ち込んでいた。カラン、コロンと30分もずっと。

「しおりちゃん。最後に僕と試合をしましょう」

 この日は、最後に奥井と試合をして、しおりは体験を終えた。奥井との試合では、他の練習生の子ども達も興味深そうに様子を覗き込んだ。奥井はわざとネットインやエッジショットをして、しおりを悔しがらせたり、笑わせたりした。しおりは、果敢に挑んだが、ぶっつけ本番のサーブ打ちに苦戦した。

 達哉は、奥井に、相変わらずですねと言って、娘の面倒を見てくれたお礼を言った。しおりに、来週も卓球で遊ぼうと言うと、しおりは心底嬉しそうに首を縦に大きく頷いて、家で壁当てがしたいとリクエストをした。早く上達したかった。

 清恵は、

「奥井さん。しおりは才能がありますか?」

と細い声で聞いた。

 奥井は、

「初っ端で苦戦する子のほうが上達する」

と講釈を垂れるように言った。

 しおりは、玄関で靴を履き替えると、奥井さん、ありがとう、と言って手を大きく振った。

 家族三人の家路は、いつになく達哉が嬉しそうだった。しおりが卓球を気に入って良かったと、何度も繰り返しそう言った。そんなに卓球をやらせたいなら、もっと押し付けるようにやらせればいいのに、清恵がやらせようと言うまでやらせなかった。達哉は、その辺りの理由には触れずに、明日はシューズを買いに行こうと言う。

 それから毎週土曜日になると村木家は奥井卓球教室に通った。しおりは自宅で卓袱台の壁当てを暇さえあれば繰り返した。手首を柔らかく使ったり、つっつきのように打ち返したり、自分で考えて様々な打ち方を試した。そして奥井の宣言通り、多くの子ども達をスルスルと追い抜いて上達した。ループドライブを覚えたのが大きかった。ループドライブを起点として、高めに浮いた相手の打ち返し球をスマッシュする。それを定石として、試合を組み立てて上手だった。やがて試合で負けることも減っていった。

 学校から家に帰れば、

 カチン

 カラン

 コロン

と子ども部屋で音を立てるしおりだった。

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