左翼批判

 たとえば小学校時代にガリベン――要は勉強だけ出来る生徒を見た経験があり、彼が印象深いとこれから述べることは釈然としないかもしれない。人間の能力というのは、往々にして相関があって、学力が上位数パーセント以内の者は、何か生きていてきっかけを掴むことができればスポーツや芸術にも高い能力を開花させることがよくある。それは県大会三回戦出場とかその程度のレベルであって、間違ってもその道のプロではないかもしれないが――学力の高い者は一定の年齢を迎えれば何をやらせても優秀だ。
 勉強が出来るとは何か――もしかすると数学が得意な者は国語が、国語が得意な者は理科が、理科が得意な者は英語が、英語が得意な者は社会が苦手かもしれない。五教科の学力を足並み揃えて見繕うには、「勉強が好きだ」というモチベーションでは頓挫する。好きな科目と同じ学力水準を嫌いな科目で達成する忍耐力が学力の本質だ。
 優秀な中学生ばかりを集めた県下有数の進学校とは、いつ喧嘩が始まってもおかしくないくらい能力を持て余した猛者たちの学級だ。学業もスポーツも芸術も高い能力があって、そんな自分と少し異なった者がいて――彼もまた同様に猛者なのだから――気に食わない。「殺してやろうか」と思うほどに憎い。そういうことはよくある。ただ、大学受験という学歴社会の大一番に、皆、大部分の時間を割かれる。彼らは忍耐の塊でもある。だから実際の衝突は稀だ。
 大学とは――異なった意見や価値観が存在することを知る機会だ。同程度に能力の高い者ばかりをすし詰め状態にして四年間ないしはそれ以上の生活時間を体験させることで最も練磨されるのは共生能力だ。高校時代と違い、青年化していることもあり、大学生活のほとんどのシーンで共生は上手く行く。ただし、日本の大学は未社会人ばかりが学生になる。だから社会人化とその後の自己実現という方向性を前提とする共生能力である。
 大卒者とは戦士なのだ。均等な機会に則って、能力に応じて働いて、社会の繁栄を目的とし、既存の国境の中にある権益を最大化すべし――社会に出てからも優秀な人間にはこのような方向性が必要なのだ。それが保守層であって、所謂右派である。彼らは無暗に殺し合わないように、生きる目的を与えられている。滅多に鞘に収まらない刀のような人物ほど、保守派に身を寄せるのは時間の問題だ。
 左翼には、そんな世界を知りもしない者が多い――フラットな世界を作れば皆が幸せになると妄信している。しかし、何の方向性もないフラットな世界とは、たちまち殺し合いになる。実現不能なくらい高い協調性を要求するものだ。で、あるならば、左翼とは、もっぱら人畜無害な者の集団か――しかし、まったくそうではない。結論から言うと、彼らは他人を高く評価する心の機構が弱い。人間なんて皆、馬鹿で間抜けだと安穏としていられる人物の巣窟なのだ。他人を見て、殺意、嫉妬やルサンチマンに駆られることもないような無気力の暮らしているところだ。あるいは、それらへの擬態――タチの悪いペテン師の集まりだ。

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