アントウェルペンはベルギー北部の都市だ。15世紀頃フランドル地方(後述)の多くの都市が、イングランド産毛織物を拒否(後述)するなか、アントウェルペンはイングランド産毛織物を受け入れた。中世ヨーロッパで、都市は、自治権限を封建的領主層から獲得して、市庁舎や取引場、さらには公共の広場を自前で持つようになると、市場(いちば)を毎日、または定期的に開いた。イングランド産毛織物を「拒否する」とか「受け入れる」とは、取り扱う商人を市場に入場させないか、させるかの違いだ。
フランドル地方とは、ベルギーとフランス北部に跨る地方である。11世紀以前は羊毛の産地であり、かつ産品の羊毛を原料とする毛織物の生産地だった。11世紀以降はイングランド産の羊毛を原料とし、さらに栄えた。14世紀以降は重税への反発からフランスの毛織物業者がイングランドに移る。次第にイングランドで毛織物業が盛んになっていった。
アントウェルペンを中継点とし、イングランド産毛織物は南ドイツやイタリアへと流通し、香料等と交換された。その後アントウェルペンは、スペインの大航海(後述)を背景に世界貿易の結節点と言っても過言ではない都市になっていった。
中世ヨーロッパで貿易の結節点は、フランス北部のシャンパーニュ(12世紀から13世紀のシャンパーニュの大市)から、14世紀にはフランドル地方のブリージュ(ベルギー)へと移っていた。北海で交易する人々の経済の地盤があり、地中海で交易する人々の経済の地盤もあり、二つの経済圏で希少価値のある物が異なれば取引を行う動機になる。シャンパーニュにせよ、ブリージュにせよ、その中継点だった。
借金大国だったスペインは、ジェノヴァの経済都市としての繁栄を助ける見返りに、ジェノヴァのベンチャーキャピタリスト(高リスク高リターンの投資をする、当時としては銀行家ら)から財政を助けてもらう関係性があった。コロンブスがジェノヴァ出身だった事とスペインが大航海のパトロンに就いた事は関係がある。大航海の結果、アメリカ大陸から流入した大量の銀は、アントウェルペンを中継点とし流通した。
アントウェルペンは16世紀末のネーデルランド独立戦争でスペインに占領され、さらにその後、ネーデルランド軍によって都市機能が破壊されたことをきっかけに衰退し、アムステルダム(オランダ)が中継貿易の要所に取って代わるようになった。イングランド・ネーデルランド側に貿易の結節点を奪われたスペインは衰退していった。
補論として、ネーデルランド独立戦争は宗教戦争として現代では評価される、またスペインはオスマン帝国と1571年レパントの海戦で争う(スペインの勝利)など地政学的リスクがあった。