ソクラテスとプラトンによれば、哲学とは、つまり普遍的なもの、現代哲学では「物事の本質」と言うがそれを、はじめから本質として見定めようとすることの学問であり、特に自分の経験や物事の類似性から学習した「客観視」と、「物事の本質をはじめから本質として見定めようとすること」とを明確に区別する学問である。たとえば「愛」をテーマに絵を描いたとして、母親の偶像を描いたり、絵の中で恋人と自分とをテーブルに向かい合って座らせたりすることは、学習した愛情の客観視に近いだろう。ここで、知恵の輪のような二つのリングを描き、「愛」とは知恵と試行錯誤の難問だ、と言うことであっても類似性からヒントを得た愛情の客観視ということになってくる。ソクラテスとプラトンの哲学とは、人を「無知の知」に引き戻そうとする営みであり、つまるところ客観視である空想とは、活動なのである。
法哲学とは、哲学である前にまず、経験科学の法学である。経験科学の法学とは、先述の「客観視」でも特に絞り込みが効いているものである。実際の社会人の慣習や習俗を分析したうえで、「善い」と思われるものを道徳的だとみなす。法哲学とは、その分析の機構を分析するところに法学からみた哲学性がある。たとえば正義であれば、「正義とは、『これは正義だ。』と念を押すことだ。」と主張することも法哲学分野の一定の認識である。
臓器移植をきっかけに「脳死を人の死と認めるか」が社会の議題とされたとき、誰一人として「自動車は左側通行」と同じ耳障りではなかった理由は、「心停止(心臓死)」が人の死であるという認識が先行していたからであると同時に、「死」というセンシティブな話題をするときに動じる道徳心の困惑だったはずだ。
デュルケム(1858~1917)によれば、社会と道徳は双方向的で互いにインプットとアウトプットの関係にある。法は、両方の要請に適ったものでなければならない。法を媒介して、ある社会を目的として、道徳が刺激されることを全ての者が批判しているわけではない。
しかし筆者は、先に道徳が暮らしている領域は、道徳から法が自然に生まれることを筆者なりに適切だと考えていたため、直感的にあまりよいことではないと思ったのだ。「自動車は左側通行」とは、それそのものの道徳があるわけではないが、「他者の交通を妨げない」という道徳は、ある。交通法規が変わっても、人びとの道徳は刺激されない。つまり、人びとの「死」の定義が、心臓死か、脳死か、と言った物理的判定とは別の所で暮らしていなければならなかったとも言える。筆者は、祖父の死を通じて、「もうあなたの知性とお話できない」を「死」だと思っていたから、物理的判定とは別の所で死の定義が仮住まいしていたようなものだ。しかし、脳死から角膜移植に踏み切った女子児童(ドナー)の父親が、「天国で王子様に会えるように」と会見したときを覚えていれば、想像がつくと思う、脳死の身体は温かいのである。家族らの合理的処理の一助に「移植手術」が待ち構えていることも、うまく言えないが冥福を祈ることしかできないのである。
イデア論のプラトンが著書『国家』で示した「洞窟の比喩」ほど、脳死をめぐる議論の隠喩はない、援用できるだろうと筆者は思った。普遍的な「死」は誰にも見えていないのである。
古代日本で、埋葬が集落で見受けられるようになったのは、少なくとも縄文時代には見受けられたと言われている。生者の居住の近くに墓地がつくられ集落全体でみると、まばらに点在していた。現代の墓地のように一定の区画の中に多数の墓地が置かれ、むしろそれを「墓地」と呼ぶような配置になったのは弥生時代からだと言う。その代わりと言うべきか、死者が生前に使っていた農具や銅剣を一緒に埋葬するようになったのも、同じような時期だと言う。日本古来の埋葬は生前の姿を強くイメージするものだったのではないだろうかと筆者は思う。古代西洋のカタコンベなども、死者が剥き出しで地上の街中に置かれていてはいけない、死後の世界を慮って、地下に作られた集団墓地である。後にカタコンベは迫害を受けたキリスト教徒の礼拝所になるなどした。古今東西、死者と生者は全く切り離されたものではないのである。死が別れであるにも関わらず、死者とはどこか思いやる対象である。これの両者が矛盾なく指し示すものは「旅」であるが、行き先がわからない、人によって違うのだろうか、同じなのだろうか。そういった意味で、「死=旅」とは、類似性で学習した死の客観視に過ぎないのである。死の普遍的なものとは何か見えてこないなかで、脳死と移植手術をめぐる道徳は、一つひとつの事例に個別に具体的で、デューイ(1859~1952)の道具主義的プラグマティズムが示すような考え方を、援用させられるものだから、非常に唐突な話でもあるのだと筆者は思う。また、客観視の机の上で「死」を考える域を、脱していない、そんななかで技術がその机からはみ出してしまったと叙情的に論じることもできるだろうか。