人工知能が人間の雇用を奪う。この討論の困難さは人工知能を詳細にイメージする困難さだ。人工知能に何ができて何ができないのか詳しくは誰も知らないのである。あるいはそのあたりに詳しい専門家によって、2045年には、人間同然のロボットが誕生するとか、シンギュラリティ時代到来でSF小説が現実になるとか説かれても、一般人にはバック・トゥ・ザ・フューチャーの新作もいいところなのだ。そして私たちは現実の2015年を知っている。
それに人間同然のロボットと言われても「人間とは何か」という命題すら人類誕生以来の哲学だったはずだ。これについて養老孟司氏は自身の著書『AIの壁』のなかで「人間は昆虫採集を楽しむ」という表現で人間を説いてみせた。この表現の含意には「人間は自然環境との対話に幸福があるよね」という問いかけがある。
しかし人間同然のロボットを作るにあたって養老孟司氏の問いかけに答えたりしながら人間の設計図を構成する必要があるかと言うと「なるべくそういった恣意的なものは要らない」という思想を現代の人工知能開発者からは感じる。なぜなら現代の人工知能開発者には集合的知性の信奉者が多い。たとえば件の著書『AIの壁』の中でアルファゼロという将棋ソフト、要は人間同然に将棋を指す人工知能が紹介されていた。アルファゼロの棋譜を解説してほしいと開発元のディープマインド社が羽生善治氏に依頼したとき、羽生善治氏は開発者らが将棋自体は全然知らないことに気づき驚いたという。これはアルファゼロに限った話ではないのだが、つまり将棋ソフト開発者は最強の棋士の設計図を持っているわけではないのだ。もっと言うと膨大な量の棋譜(誰がどの局面でどう指したかの履歴)と評価(勝敗や優劣)を参考に学習した結果として「おそらくは最善手」と思しきもの弾き出して、それを素直に指しているだけなのである。これが集合的知性に基づく典型的な人工知能だ。
だから若者同然のロボットを集合的知性に基づく典型的な人工知能で創りあげたら、唐突に一人暮らしをして、そしてお笑い番組を一人で視聴してクスクス笑いはじめるかもしれない。そして彼に管理職の仕事をさせようと管理職のデータを大量に与えた結果、女性をよく眺めるかもしれないのだ。何が言いたいかといえば行為に対応する評価(善し悪し)が人間社会から正しく提供される見込みはあるのか。ハラスメントなど。もしかすると彼は良いことだと思っていやらしいことに腐心するかもしれない。これは決して冗談ではない。戦争。テロ。暴力。そういったものを厭わない人工知能は案外簡単に創れてしまうのではないか。
ここで養老孟司氏の「人間は昆虫採集を楽しむ」という発言とその含意としての問いかけ「人間は自然環境との対話に幸福があるよね」を思い出してほしい。人工知能開発はこうした理想主義的理想論を必要とするだろう。恣意的な設計も現実的な人間像より理想的な人間像が必要とされるだろう。哲学が必要なのだ。そしてこの筆者の願いが人工知能を「利益のための道具に過ぎない」とし要は優秀なビジネスマンにしたい要請とどこまで調和できるのか。そういった文脈で果たして人工知能が人間の雇用を奪うかの討論をしてみたい。
参考:
『AIの壁 人間の知性を問い直す』養老孟司(PHP新書)