日本仏教史(近世以前)

日本は無宗教国家なんて言われたりするが、日本の歴史上の政治権力と仏教とはとても密接な関係にあり、特に近世以前は内政も外交も、政治政策は仏教と大いに関連した。そんな仏教が、紀元前5,6世紀にヒマラヤ山麓の小国で発祥してから日本に伝来した経緯は、史料(『隋書倭国伝』600(開皇20)条に「仏法を敬し、百済より仏経を求む」とある)によれば、6世紀頃に朝鮮半島の百済から伝わったとされている。そして蘇我氏など当時の有力豪族や、聖徳太子など皇族が最初期の日本仏教を主導したと言われている。実はそれ以前から渡来人(海を渡って日本にやってくる人々)の間では仏教は信仰されていて、司馬達等の一族(止利仏師ら)などにその逸話がある。

さて6~7世紀なかばごろの約1世紀間、主に推古天皇(在位592~628)の治世に、日本は飛鳥文化の時代をむかえる。日本で最初の仏教文化であり、朝鮮半島の文化の強い影響をうけている。朝鮮半島を通じての中国の六朝文化のほか、ギリシア・西アジア、インドなどの影響が見られる世界性豊かな文化である。このころから寺院は古墳にかわって豪族の権威を示すものとなった。伽藍建築は、礎石・瓦を用いた新技法による大陸風建物であった。仏像彫刻では、先述の止利仏師の作といわれる金銅像の法隆寺金堂釈迦三尊像のように、整ったきびしい表情の中国南北朝の北魏様式を受容しているもののほか、やわらかい表情の中宮寺半跏思惟像・法隆寺百済観音像などの木像がある。

そして7世紀後半から8世紀初頭にかけては白鳳文化の時代をむかえる。唐初期の文化の影響を受け、仏教文化を基調にしている。天武天皇によって大官大寺・薬師寺がつくり始められるなど仏教興隆は国家的に推進され、地方豪族も競って寺院を建立したので、この時期に仏教は急速に展開した。

さらに聖武天皇の時代である天平年間(729~749)を中心として栄えた文化を、天平文化(2019年度上智大学文学部にて出題)という。国家仏教の繁栄と相まって仏教的色彩が強く、遣唐使(2018年度広島大学文学部にて出題)の派遣により盛唐文化の影響をうけて、国際色も豊かであった。奈良時代には、仏教は国家の保護を受けてさらに発展した。とくに仏教によって国家の安定をはかるという鎮護国家の思想は、この時代の仏教の性格をよく示している。そして奈良仏教の中心となる教理研究の学派は南都六宗と呼ばれ、飛鳥・白鳳期からの三論・成実・法相・倶舎に奈良時代からの華厳・律を加えた六宗のことである。また当時の僧侶は宗教者であるばかりでなく、最新の文明を身につけた一流の知識人でもあったから、玄昉のように聖武天皇に信任されて政界で活躍した僧もあった。その一方で、仏教の政治化をきらい、大寺院を離れて山林にこもって修行する僧たちが出て、やがて新しい平安仏教の母体となっていった。

ここで仏教は、日本の社会に根づく過程で、在来の信仰と結びついていったと言われている。たとえば在来の神祇信仰と合わさり、神宮寺の創建や神前での読経などが行われた。また「神身離脱(神が神であるがゆえに苦悩を感じ、その身を離れて仏教に帰依することを願うこと)」や「護法善神(仏教を保護する存在として神を捉える思想)」などを経て、平安時代初期以降に「本地垂迹説(神を仏や菩薩(本地)が衆生を救済するために姿を現した仮の姿(垂迹)とする考え方)」が登場する。(参考:『仏教史研究ハンドブック』p186 佛教史学会編)

その後の平安遷都から9世紀末頃までの文化を弘仁・貞観文化と呼ぶ。この時代には、平安京において貴族を中心とした文化が発展した。文芸を中心として国家の隆盛をめざす文章経国の思想が広まり、宮廷では漢文学が発展し、仏教では新たに伝えられた天台宗・真言宗が広まり密教が盛んになった。天台・真言の両宗はともに国家・社会の安泰を祈ったが、加持祈祷によって災いを避け、幸福を追求するという現世利益の面から皇族や貴族たちの支持を集めた。なお真言宗の密教は「東密」と呼ばれ、天台宗の密教は「台密」と呼ばれる。

ここで最澄(2018年度広島大学文学部にて出題)と空海は、これまでの仏教史研究において、南都六宗を中心とする奈良仏教とは異なる新たな潮流を仏教界にもたらした「平安仏教」の創始者として位置づけられている。しかし近年では、奈良仏教との連続性から彼らを評価する研究もみられるようになってきた。最澄は、鑑真が請来した経典によって天台教学に出会い、空海以前の密教は、「雑密」とされて空海請来の密教と区別されるが、すでに奈良時代の仏教にも高度な密教的要素が含まれていたことが指摘されている。最澄・空海は、奈良仏教の伝統を引き継いでいるともいえるのである。(参考:『仏教史研究ハンドブック』p170 佛教史学会編)

やがて平安中・後期(10世紀から11世紀)になると、国風文化(2017年度学習院大学文学部にて出題)が成立・発展し、和歌・物語・随筆などが独自の発達を示した。それは、かな文字の成立・普及によるところが大きい。摂関時代の仏教は、天台・真言の2宗が圧倒的な勢力をもち、祈祷を通じて現世利益を求める貴族と強く結びついた。その一方で、神仏習合も進み、仏と日本固有の神々とを結びつける本地垂迹説も生まれた。また怨霊や疫神をまつることで疫病や基金などの災厄から逃れようとする御霊信仰が広まり、御霊会がさかんにもよおされた。その一方で、現世利益を求めるさまざまな信仰と並んで、現世の不安から逃れようとする浄土教も流行してきた。浄土教は阿弥陀仏を信仰し、来世において極楽浄土に往生し、そこで悟りを得て苦がなくなることを願う教えである。この信仰は、末法思想によっていっそう強められた。盗賊や乱闘が多くなり、災厄がしきりにおこった世情が、仏教の説く末法の世の姿によく当てはまると考えられ、来世で救われたいという願望をいっそう高めたのである。

ここで奈良時代以来の南都六宗と平安時代に登場した天台・真言両宗を加えた八宗に対して、浄土・法華・禅の三宗は鎌倉時代以降に確立したものであり、鎌倉新仏教などと呼ばれることがある。

さて法然を開祖とする浄土宗は、専修念仏(他の行を行わず、もっぱら阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)を唱えること)の教えを説き、摂関家の九条兼実をはじめとする公家のほか、武士や庶民にまで広まった。しかしその一方で旧仏教側からの避難が高まり、法然は土佐に流され、弟子たちも迫害を受けることになった。その弟子の親鸞が広めた浄土真宗は、時代が下り、室町東山文化のころ、蓮如によって全国で盛んになる。また一遍がおこした時宗も、信心の有無や浄・不浄を問わず、すべての人が念仏によって救われると説いた。また日蓮は、宗教体験と信仰を重視した新たな解釈を天台宗に加え、天台宗とは異なる日蓮宗(法華宗)を打ち立てた。その後、浄土宗と法華宗は、室町・戦国時代に一向一揆といった形でその勢力が可視化された。

最後に禅宗について、菩提達磨がインドから中国に伝えた禅宗は、7世紀以降、中国に渡航した天台僧によって断片的に日本に持ち帰られたとされるが、体系的に定着するのは鎌倉時代以降である。博多聖福寺や京都建仁寺を開いた栄西(1141-1215)は、一般的に日本臨済宗の祖とされている。ただ、彼らはもともと天台僧であり、栄西が鎌倉幕府の祈禱僧としても活躍した事実は見逃せない。一方、宋から曹洞宗を伝えた道元(1200-1253)は、比叡山の圧迫を避けて越前永平寺を開創し、能登永光寺などとともに、北陸屈しの禅宗道場となった。

ここで臨済宗は、室町時代に入ると、足利将軍家の帰依をうけ繁栄した。特に1386年、足利義満(2019年度東洋大学文学部にて出題)の時代に五山・十刹の制度が確立されると、幕府の手厚い保護をうける。室町幕府は、有力な臨済宗寺院を五山として位置付け、朝廷の認可も受け公武政権によってその寺格が認定された。さらに京都・鎌倉・地方の有力な禅寺が十刹・諸山といった寺格が与えられ、全国的なネットワークを形成した。しかしながら、五山・十刹・諸山など、国家の最高権力者が直接住持を任命することとなる禅宗寺院が、既に鎌倉末期の頃から全国規模で経営され始める事実は見逃せない。つまり禅宗に対する社会的な関心の広がりは、室町以前のものであった。そして室町幕府は有能な禅僧を列島社会のなかから見出し、諸山、十刹、五山などの住持に任命し、そのようにして五山制度を整備することで、禅宗に関心を持つ諸勢力の信望を集め全国統治の一助としたのである。

その後の織田信長が上洛する永禄11年(1568)から、慶長5年(1600)、関ケ原の合戦によって豊臣氏が実質上政権基盤を失うまでの約30年間は織豊政権期などと呼ばれる。この30年は、政治・社会・経済・宗教など、あらゆる方面で中世から近世への転換が起こった。とくに仏教史の視点からみると、中世を通じて続いてきた王法・仏法相依関係(王法とは、仏法に対する世俗の法律や慣習のこと。相依関係とは王法と仏法が相互補完的な立場にあるとするもの、室町時代の五山制度などが典型)から、王法の創出した国家の枠組みに仏法が位置づけられるようになったこと(その後の江戸時代を含め近世にはいると、キリスト教だけでなく仏教も宗教政策・宗教統制の対象だった)が最大の変化・特質である。

以上が近世以前の仏教史、そのおおまかな流れである。

参考図書:『仏教史研究ハンドブック』佛教史学会 (編集)

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