律令国家の形成(平城京以前)

6世紀、朝鮮半島北部を支配する高句麗の南下圧力で、朝鮮半島南部の勢力図は変化した。具体的には伽耶諸国が百済・新羅の支配下に入った。これにより日本は朝鮮半島への影響力を大きく失った、なぜなら伽耶諸国と日本とは政治的に結びついていて、日本としては独自に築き上げた政治基盤を失った形であった。(「古代日本の対外関係」2017年度新潟大学人文学部にて出題)これにともなって当時の国内で対伽耶諸国政策の大臣に相当する地位にいた大伴氏は、国内での勢力を失った。その影響として物部氏と蘇我氏が対立するようになった。やがて蘇我馬子は、587年に物部氏を滅ぼし、さらに592年には崇峻天皇を暗殺し、勢力を強めていった。

こうした国内外の動揺を背景に即位した女帝・推古天皇(「日本古代の女帝」2019年度奈良女子大学文学部にて出題)聖徳太子(2018年度関西大学文学部にて出題)を起用し、蘇我馬子と聖徳太子のコンビで国家組織の形成を進めた。この時期の政策として、603年の「冠位十二階」、604年の「憲法十七条」、600年の「遣隋使(2017年度法政大学文学部にて出題)」など大変に有名である。※この時期の文化は飛鳥文化と呼ばれ、白鳳文化と区別される)(「飛鳥時代の文化」2019年度奈良女子大学文学部にて出題)

しかし蘇我氏にとって聖徳太子の一族はやはり面白くない存在であったようだ。蘇我入鹿は、聖徳太子の子の山背大兄王を滅ぼして権力集中、蘇我氏中心の中央集権化を図った。これが発端となり「いや蘇我氏中心ではなく、王族中心でなければならない」と思った中大兄皇子と中臣鎌足らは645年に蘇我蝦夷、入鹿を滅ぼした。さて有名な「大化の改新(2018年度法政大学文学部にて出題)」とは、この襲撃事件の後に即位した孝徳天皇の治世におこなわれた諸改革をひとまとめにした歴史用語だ。襲撃事件のことをいうものだと思っている人も多いが、違うので気をつけてほしい。

さて7世紀、隋にかわって中国を統一した唐は、朝鮮半島北部の高句麗に侵攻する。南部の新羅は唐と結託して百済、高句麗を打倒した。その後、百済の遺臣たちが日本を頼ったこともあり、日本は百済再建のため朝鮮半島に大軍を派遣した。(「古代日本の対外関係」2017年度新潟大学人文学部にて出題)しかし663年の白村江の戦い(2019年度学習院大学文学部にて出題)で日本は大敗した。この大敗の動揺から日本の中央集権化はさらに進んだというみたかがある。なお朝鮮半島は新羅が支配権を確立した。

667年に中大兄皇子は即位し天智天皇(2018年度東洋大学文学部にて出題)となった。天智天皇が亡くなると皇位継承をめぐる戦い(壬申の乱)が起きた。勝ったのは天智天皇の弟・大海人皇子で、すぐに即位して天武天皇となった。このとき子・大友皇子に味方した有力豪族が失脚したことで天武天皇は巨大な権力を手にした。そして中央集権的国家体制の形成は大いに進んだといわれる。

701年に刑部親王や藤原不比等(2018年度奈良女子大学文学部にて出題)らによって「大宝律令」が完成し、律令制度による政治の仕組みが整った。(「律令制下の地方支配」2018年度新潟大学人文学部にて出題)「律」は刑法、「令」は行政組織・官吏の勤務規定や人民の租税・労役などの規定である。民衆は「班田収授法」に従いながら、「租」「調」「庸」「雑徭」「出挙」など負担が課せられた。

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